1521年4月14日はセブ島にとってもフィリピンにとっても記念すべき日だ。
モルッカ諸島を目指していたフェルドナンド・マゼラン提督は、この日セブ島のラジャ・フマボンにキリスト教徒としての洗礼を施した。
マゼラン提督の船隊は、一週間前の4月7日にセブ港に入港し空砲を放った後、ラジャ・フマボンのもとに使者を送り、大砲の音に驚く王に「平和と友好とその国の王への儀礼のための礼砲」であることを説明させ、入港の目的は食料と水の補給のためだと伝えさせている。
この頃すでにセブ島にも、ポルトガルが武力でインドのカルカッタやマラッカを占領している情報は伝わっていたため、その時セブ島を訪れていたシャムの商人はマゼランの一行の望みをかなえるよう王に進言している。
マゼランの使者は、我々の国王はスペインだけでなくキリスト教徒の皇帝でもあり、ポルトガルよりも強大な武力を持っている。フマボン王が友好関係を拒むのであれば容赦はしないと述べている。
要求をのまなければ攻撃するというのだから穏やかではない。
結局フマボン王はマゼラン提督の要求を受け入れ、ともに相手を尊重し友好関係を結ぶこととなった。
マゼラン提督は王族をはじめ島の住民にキリスト教について話している。
その話を聞いた彼らは喜んでキリスト教徒になるといったそうだ。
ただし提督は「私たちを恐れるからとか喜ばせるためにキリスト教徒になってはいけない。あくまで自分自身の自由意志で信者になることが大切だ」といったそうだ。
提督の勧めもあって王はキリスト教を信仰することを表明し、4月14日(日曜日)に洗礼を受けることになった。
強制されることなく、自らの意思でフィリピン人として初めてキリスト教徒となったのがラジャ・フマボンだ。
マゼランは洗礼を受けた王のクリスチャンネームをスペイン皇帝にちなんでドン・カルロスと名付けている。
フマボンの妻である王妃ははじめ洗礼には消極的だったが、聖マリア像とサント・ニーニョ像、それに十字架を見ると突然涙を流しながら洗礼を受けることを望んだそうだ。
王妃のたっての願いで、マゼランはサント・ニーニョ像を王妃に贈ることにした。
この像は、その後レガスピによって破壊されたセブの焼け跡から奇跡的に無傷のまま見つかり、セブの守護神となり、今ではセブ最大の祭りの主役になっている。
マゼラン提督の船がセブに入港して500周年となる2021年4月7日、セブ市はこの日をラジャ・フマボンの日と宣言した。
4月11日(日曜日)に、セブの教会では500周年を記念して100人の赤ちゃんの洗礼式も行われている。
洗礼を執り行った司祭は、この子たちが大きくなったとき、フィリピンにキリスト教が伝わってちょうど500年という記念すべき日に自分が洗礼を受けたことを知れば、大きな誇りになるだろうと述べている。
ラジャ・フマボンはマゼラン提督の人柄に敬意を抱いたようだが、その後マクタン島の王ラプラプとの戦いでマゼランが亡くなると、一転して残った一部の指揮官と隊員を朝食に招きいれ殺害している。
なぜそのようなことをしたのか謎だが、マゼランと航海を伴にし「最初の世界周航」を書いたピガフェッタによると、マゼランに仕えていた奴隷のエンリケがフマボン王に何か良からぬことを吹き込んだのではないかと推測している。
このフマボン王による殺害事件が、スペインの征服者レガスピによって1565年にセブの町が破壊されることにつながっていく。
ほとんどの国民がカトリック信者のフィリピンにおいて、500周年は記念すべき大切なものだと思う反面、その後のフィリピンの歴史を考えると、日本人の私としては単純に喜ばしいこととは言えないような気がする。
キリスト教との出会いは〇だが、スペイン人との出会いは✖だったのではないだろうか。