日本人にとってクリスマスは宗教色がない年末のイベントだ。
街にはクリスマスツリーが飾られ、ターミナル駅の構内にはクリスマスケーキの特売所ができ、デパートやスーパーではチキンのグリルが飛ぶように売れている。
クリスマスプレゼントを贈る習慣も根付いている。
単なる年末のイベントにすぎない日本と違って、キリスト教信者がほとんどのフィリピン人にとってクリスマスは特別なイベントだ。
9月のBer Monthから始まるクリスマスシーズンは、キリスト生誕日の9日前から24日まで各地の教会で行われるSimbang Gabiと呼ばれる早朝ミサを経てクライマックスの12月25日を迎える。
コロナ禍でパーティーの自粛が行われているのはフィリピンでも同じで、例年だと職場でも大掛かりなクリスマスパーティを開催するところが多いが、今年はほとんどないようだ。
クリスマス当日は家族が集まり神に感謝し、みんなでディナーを楽しむのが一般的だそうで、子供たちには日本のお正月と同じようにお年玉(Pamasko)が配られるらしい。
いずれフィリピンに住むようになるとディナーだけでなくPamaskoの準備もしないといけなくなる。
日本の我が家ではクリスマスケーキとチキン、そしていつも幸せを与えてくれる妻にプレゼントを用意して二人だけのクリスマスとなった。
日本人とフィリピン人との文化的な違いはいろいろあるが、もっとも違うと思うのは、なにか幸運なことがあったときに、日本人はそれをもたらしてくれた人や社会に感謝するのに対し、フィリピン人は神に感謝することだ。
だから私の感謝の対象は妻だが、フィリピン人なら神に感謝することになる。
そうした状況を作り出してくれたのは神だと考えるのがフィリピン人だ。
日本の社会は人と人との関係で成り立っているのに対し、フィリピンに限らずキリスト教やイスラム教などは人と神との関係で成り立っていること。
イスラムの世界では、何事もインシャラーつまり神の思し召しという言葉で片づけるらしい。たとえば明日会おうと約束するときも「インシャラー」といい、当日約束の時間に来なかったときも「インシャラー」といって、恬として恥じない。
約束して実行するのに神は関係ない。決めたことを守るのは自分自身ではないか、と日本人なら考える。もし自分が約束を破ったら恥じ入るところだ。
日本人は何かをすると決め、それが出来なかった場合自分の努力が足りなかったと思うのが普通だ。努力すればなんでもできると思い込んでいるところがある。
でもよくよく考えると、インシャラーという方がある意味正しいのかもしれない。努力すればなんでも出来ると考えることの方が不遜ではないだろうか。
「人事を尽くして天命を待つ」ということわざも日本にはある。
努力だけでは何ともしがたいことや、人知の及ばない世界があることをコロナウィルスはあらためて教えてくれた。
今ある幸せを、自らが選択した結果とだけ考えるのではなく、もっと大きな存在(それを神と呼んでもいい)からの賜物として感謝するクリスマスもいいのではないだろうか。
もちろん私は妻にも感謝しているけれど。